イベント名 |
総会ウォーク |
主催 |
宮城県ウォーキング協会 |
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開催日 |
2019年2月16日 |
開催地 |
宮城県仙台市 |
参加料 |
500円 |
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本日は、宮城県ウォーキング協会主催の総会ウォークに参加します。
スタートが地下鉄東西線大町西公園駅で、ゴールがカメイアリーナ仙台です。
街中を通るウォークなので、見所も少ないだろうと軽い運動のつもりで参加しました。
果たしてどんな見所があるのでしょうか?ただ歩いて終わりなのかな?? |
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駅の隣には、城を模した大町交番と番所のようなトイレがあります。
それではスタート地点の西公園を、少しご紹介したいと思います。 |
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西公園の歴史を紐解くと、明治8年に開園した仙台市で最も古い都市型公園だそうです。
明治8年にびっくりしました。なぜかというと、仙台城に至る最後の砦ともいうべき要所にあり、
城下町としても最高の立地場所が更地やそれに近い形という事は考えられないからです。
かと言って、今よりも国家権力が強い時代とはいえ、公園を作るからという理由では強制移転
などできないだろうし、住民も納得しないだろうと思ったからです。
もともと自分が思っていた西公園の開設時期は、太平洋戦争後です。
昭和20年7月10日に空襲があり、仙台は焼け野原になりました。
何もかもなくなった為に、中心部から海を見る事ができたそうです。
復興計画の中で、防災上の理由から東に榴岡公園、西に桜岡公園(西公園)を作ったのだろう
と勝手に想像しておりました。しかし、明治8年となると全く話が違います。
それでは、明治8年より以前は何があったのだろう?と疑問が浮かびました。
何か理由があり、都市型公園を作るのに適した広い場所があったのでは?と思いました。
では何が?皆さんは、どのように推測しますか?私は、次のように推測してみました。
推測①伊達家や重臣の屋敷があり、広い庭園があったのではないか?
推測②寺社仏閣があり、その敷地だったのはないか?(公園内には櫻岡大神宮がある)
推測③火除け地や避難場所があったのではないか?(仙台城への延焼防止や住民避難の為)
この中に正解がありそうな気がします。果たして何があったのでしょうか?
正解は、推測①が近かった。重臣や下級家臣が住んでいたでした。
では、住んでいた人たちはどうしたのでしょうか?大人しく移転したのでしょうか?
違いました。明治維新後の士族の没落とともに、この一等地は切り売りされていきます。
料亭や大神宮、芝居小屋などが建てられたそうです。
現在でも公園内にある写真の源吾茶屋や櫻岡大神宮は、その時に建てられたものです。
その後、宮城県が土地取得に乗り出し、公園開設となりました。
士族の没落・・・ 何気ない身近な場所にも、意外な歴史が隠されていました。
現在は、桜ヶ丘公園遺跡(武家地)、(武家奉公人地区)として遺跡登録されていました。
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私が子供のころは、中心の芝生が広がっている辺りに小さな野球場がありました。
リトルリーグ時代には、よく利用した場所です。
左奥にあった天文台もなくなり、当時の面影は全くありません。
西公園は、東の榴岡公園と双璧をなす桜の名所としても知られていますが、わがまち緑の
100選にも選ばれており、四季を通じて緑を楽しめる場所になっています。
ちょっと散策した時に目を引いた樹木は、大イチョウと臥竜梅の2つありました。
写真左の大木が大イチョウ、仙台空襲で焼けたものの、翌年見事に芽吹いた奇跡の木です。
調べてみると、イチョウは喘息などの薬として中国から伝来したと書かれていました。
中国では寺院で盛んに植えられていたそうですから、茶と一緒ですね。意外でした・・・。
少し疑問も湧きました。なぜ身近にこれほど生えているのだろうか?
同じく薬として伝来したお茶よりも、はるかに身近で見る事が出来ます。
日本各地にイチョウの大木が沢山ある事から、昔から身近な存在だったことは間違いない。
ここで本日2問目を出題させていただきます。
ではなぜこのように身近にイチョウの木は植えられているのだろうか?理由をお答えください。
私の推測は、植樹するのに有用な理由があるのは間違いという事です。では何か?
そんなの当たり前だろうと思った方もいるかと思いますが、ポイントは植樹されたです。
外来植物で爆発的に繁殖したという可能性もありえますが、私は可能性が無いと思いました。
根拠は、山を歩いてもイチョウの森を見たことが無いからです。もし繁殖力が強かった為に
日本各地に生えているのなら、もう少し森のようになった場所があってもいい。
では、なぜお茶よりも身近に植える事になったのか?
推測①薬効が強い。今よりも喘息などの病気が多く、薬の木として町町で植えたから。
推測②いい木材になる為に、屋敷林として植えたから。
推測③もっと別な長所があったから。何かは判らないが(笑)
推測①は間違いでした。薬効は事実ですが、銀杏中毒を起こす可能性もありました。
推測②イチョウの木は、歪みが少なく、加工がしやすい為に、建具や家具などの精密さが
求められる材木として重宝されていました。歪んで開閉しにくいと大変ですしね。
推測③具体的な理由が思いつきませんでしたが、これが正解でした。
仙台空襲で生き残った事に関係する、意外な長所がありました。
イチョウが盛んに植樹された理由は、丈夫で火に強い特性からでした。
江戸時代には、火除け地などに盛んに植えられました。
現在でも街路樹として見かけるのは、丈夫で管理しやすいという理由からでした。
実際に街路樹として一番多く採用されているのがイチョウだそうです。意外でしたね。
西公園でもうひとつ目を引いた樹木は、竜が地を這うように見える臥竜梅でした。
名前は知っておりましたが、西公園にあるとは知らなかった。
移植されたのかと思って調べたら、なんと日本各地に存在していました。(爆笑)
実は、独眼竜伊達政宗が朝鮮出兵時に持ち帰った梅が、竜のように生えた縁起物の梅だから
臥竜梅と名付けたと思っておりました。(笑)地を這うように生えた梅は、すべて臥竜梅なのね。
実際に伊達政宗が朝鮮出兵時に持ち帰ったとされる朝鮮ウメ(臥竜梅)もありました。
天然記念物になっているその臥竜梅は、伊達政宗の晩年の居城である若林城があった場所
(現在は宮城刑務所になっている)にあります。服役しないと見れない貴重な梅です。
西公園の臥竜梅は、その梅の子孫樹だそうです。
宮城刑務所内の臥竜梅は、見事な梅の実を生らせるそうですが、西公園はどうだろう?
白い花を咲かせるそうですが、あることさえ知らなかったので見たことがありません。
樹齢200年の梅の花・・・興味があります。今年は、ぜひ写真を撮りに行ってみよう!
実を採りに行くのではないので、勘違いなさらないように・・・。(爆笑) |
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仙台市は、彫刻のある街づくりをすすめています。
西公園にも2つの彫刻が設置されており、写真は朝倉響子作「ふたり」です。
彫刻だけでなく、日時計や石碑など時の移ろいを感じるものもありました。
石碑を訪ね歩き、じっくり見ていったら、優に一日を費やしそうです。 |
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受付を済ませ、ざっと西公園を歩いただけで意外な発見だらけでした。
果たして、今日はどんな風景や歴史に出会えるのでしょうか?楽しみです。^^
注意事項やウォーミングアップも終わり、9時21分 総会ウォークがスタートしました。
いつもは先頭を歩くのですが、今日は中団待機で行きましょう。(笑)
本日も50名以上の参加しているようです。ウォーキング人気は衰えることがありません。 |
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歩き始めてすぐに見えてきたのが、大橋のたもとにあるこの銅像です。
祈りを捧げているようにも見えます。
調べてみると、仙台キリシタン殉教碑でした。三人の像ですが、殉教者は9名でした。
中央がポルトガル人宣教師カルバリヨ神父で、向かって右が農民、左が武士です。
1624年2月に水牢に処されて、次々と命を落としていきました。
「改宗する」と一言いえば、恐らく許された事でしょう。じわじわと死に行く中で、それでも神を
捨てない、信じ抜くという事の凄さに驚嘆させられました。信仰を試された訳です。 |
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この大橋(橋名)の右袂に、仙台キリシタン殉教碑はあります。
たおやかに流れる広瀬川のせせらぎからは、そんな残酷な歴史は微塵も感じませんでした。 |
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この堤防を歩くのは、初めてです。途中に小さなお堂がありました。
誰も立ち寄る様子が無いので、あまり有名な場所ではないのかな?
銭形不動尊と書かれていましたが、立ち寄らずに遠くから撮った写真だけにしました。
由緒書には、下記のように書かれているそうです。
「藩祖政宗公が仙台藩のお金(仙台通宝)をつくるときどんな型にしようと考えていました。
そのとき、お不動様が現れてこんな型にした方が良いと教えてくれましたので、
その型を石に彫って鋳型を作ったとのことです。
その後、その鋳型が不要になったので反対側の面にお不動様を彫りました。
そして青葉山の見える花壇にお宮をつくって祀りました。」
ちょっと前に仙台藩の鋳造の歴史を学ぶ機会がありました。
それによると、仙台通宝を鋳造したのは伊達政宗ではありませんでした。
天明の大飢饉が起こり、仙台藩は藩財政立て直しの為、独自貨幣を作る事にしました。
私には、この時点で悪い予感しか浮かびません・・・(;^ω^)。
経済に疎い私でも判る通り、この政策は大失敗に終わります。
もっと深く調べてみると、更に意外な事実がありました。
実は、貨幣鋳造でインフレを起こしたのは、二度目の事でした。
一度目は、江戸幕府公認の通貨 寛永通宝を大量に鋳造し、全国的インフレを起こしました。
その為に、今回の仙台通宝鋳造には、2つの条件がありました。
①寛永通宝と似ていないデザインにする事。この為に銭形の新しいデザインが必要になった。
②仙台藩内での流通に限定した貨幣である事。全国にインフレを波及させない為。
一度目の失敗は活かされず、二度目の鋳造もインフレを起こし、早々に中止となりました。
大飢饉で困窮している民衆に、インフレの追い打ちをかけてしまいました。
藩札は紙くず、鉄銭は鉄くず・・・ なんて最悪な経済政策を取ったのか・・・
不要になった銭形の裏面に不動様を彫り、仙台城に向けて祀った。
二度と間違いは起こさないという決意の為ならいいのですが・・・真相はいかに。 |
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堤防から離れ、花壇町内を通り、評定河原橋の袂にある評定河原球場に出ました。
右側に見えるフェンスの中が評定河原球場です。
手前の土手には、伊達政宗の兜と家紋がかわいく表現されておりました。
この兜の三日月の前立は、父輝宗から贈られたものです。
この月はとても気に入っていたようで、伊達政宗の辞世の句にも月が詠まれています。
「曇りなき 心の月を 先立てて 浮世の闇を 照らしてぞ行く」
もう一つ贈られたのが、旗印です。「白地赤日の丸旗」と呼ばれ、日本国旗と同じです。
世界を夢見ていた政宗らしい旗印ですね。 |
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評定河原橋から見た仙台城址です。山の上にお城がありました。
この先の崖の手前で川は2つに分かれます。
左に竜ノ口川があり、約2km上流まで続きます。化石採集地としても知られ、鯨や鮫の化石が
有名です。この川の左側が太白区で、右側が青葉区になります。
広瀬川は、崖の手前で右に直角に曲がっております。
この辺はアユ釣りでも有名で、早春にはヤマメやイワナを釣る事も出来ます。 |
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評定河原橋を渡り、袂からまた堤防を歩きます。同じ町内なのに、初めて歩く場所。(笑)
釣りで下の河原を歩いたことは何度もありますが、堤防上は初めてです。特に見所なし。(笑) |
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本日、2つ目の橋を渡ります。霊屋橋です。
この橋の下は、源兵衛淵と呼ばれ、広瀬川で最も深いと言われている場所です。
絶好のハヤ釣りのポイントなのですが、今では釣りをする人を見かける事が無いので、
少し寂しい感じがします。私が子供のころは、釣り人で賑わっていました。 |
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霊屋橋を渡ると、今度は街中を歩きます。事前案内で道幅が狭いので、車に注意して歩いて
くださいと言われた場所です。50名以上いると、行進でもしているようです。 |
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信号を渡り、ふと標識を見ると「昭和市電通り」と書かれていました。「おお!仙台市電!!」
仙台市電は昭和51年3月31日まで走っていたそうですが、私は4歳・・・記憶にありません。
どこからどこまで走っていたかも知らない。ではなぜ「おお!仙台市電!!」と感激したのか?
実は、先日のニュースで仙台市電の引退の話題が出たからでした。
引退?昭和51年に廃止されたのではないの?と思うかもしれません。
私も知らなかったのですが、仙台市電の車両5台は長崎に譲渡され活躍しておりました。
仙台・長崎と66年間も活躍した最後の1台がついに引退する。
そのさよならパレード運行が3月30日に行われるというニュースでした。
「凄い!よく頑張ったな!」と関係ないのに、とても誇らしい気持ちになったニュースでした。 |
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愛宕橋駅でトイレ休憩を済ませ、再び歩き始めるとお堂が見えてきました。
真福寺と書かれているので調べてみると、時宗の寺院でした。
仙台には時宗の寺院は2つしかないそうです。その内の一つが、この真福寺でした。
子供の願いを叶え、乳の出ない母親が拝めば乳の出が良くなるといういわれがあるそうです。 |
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真福寺を過ぎると、愛宕橋に出ました。こうしてみると、参加者の多さが実感できます。
近くに愛宕大橋ができてからは、あまり利用されなくなったそうです。
しかし、この愛宕橋はとても歴史のある橋でした。
現在の愛宕橋は5代目ですが、もともとは仙台で最初に造られた吊り橋でした。
通行料を取って渡していたそうです。意外だなと思っていたら、先ほど通ってきた霊屋橋も
通行料を取っていた時代がありました。建設費を通行料で賄ったのでしょうか? |
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愛宕橋を渡り、また堤防を歩き始めると工事の案内板がありました。
なんとこの辺りにもカジカガエルが住んでいるようです。
イメージとしては、渓流とか石の多い河原にいると思っていましたので意外でした。 |
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更に進むと、鳥たちが集まっている場所がありました。
これまで堤防沿いも歩いてきましたが、このような場所はありませんでした。
同じように見える河原でも、過ごしやすい場所があるようです。
鳥たちの居心地の良さの基準は何でしょうか?
餌の多さとか、水温や風の向きとかでしょうか?聞いてみたいものですね。(*'ω'*) |
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宮沢橋を過ぎると、鎧淵古戦場跡と書かれた真新しい碑がありました。
奥州藤原氏と鎌倉幕府の戦い、奥州合戦の舞台の一つでした。
奥州軍の本陣は、榴岡公園(東公園)にあったそうです。
今日のスタート地は、西公園でした。何か因縁を感じます。
奥州軍は岸に乱杭を打ち、川底には網を張って攻撃をくい止めようとしたそうです。
しかし、何たることか・・・味方の武将が馬に乗って川に入ったところ、網に絡まってしまい
射殺されてしまったそうです。・・・
今日の川の物語には、なんと悲しい歴史が隠されている事か・・・ |
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ふと道路の方を見ると、樹も戦闘態勢に入っていました。迷彩柄です。
何と戦っているのでしょうか? 排気ガス?それとも粉塵でしょうか?強敵揃いですね・・・
この近くには、兜塚古墳という5世紀頃の前方後円墳(全長75m)もあり、宮城県武道館も
あります。よくよく戦いの因縁にまみれた土地のようです。 |
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更に堤防を進むと、郡山堰が見えてきました。
秋にはサケの遡上を見る事が出来ますし、魚を取りやすい為に魚食性の強い鳥の餌場にも
なっている場所です。写真に写っている小さな白い点は、恐らくコサギだと思います。
他にもアオサギ、ゴイサギ、カワウなどのバードウォッチングに最適です。
開けていて隠れる場所が少ないし、止まる木もわずかしかないからです。 |
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広瀬橋の袂まで来ると、橋姫明神由来碑と祠がありました。
今日は広瀬川にまつわる悲しい歴史ばかりを見せられてきましたが、ここにも悲しい歴史が
ありました。橋姫明神として祀られているのは、愛姫という長者の一人娘です。
長町と河原町を結ぶ橋を架ける事になりましたが、長雨続きで工事ができなかった。
水神様の怒りを鎮めるための人柱を立てる事になった時、自ら志願したのが愛姫でした。
愛姫の祈りが通じ、無事に橋は完成し、愛姫は橋や土木の神様として信仰されました。
現在は広瀬橋と改名していますが、最初は永町橋と言ったそうです。 |
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広瀬川を離れて、街中ウォーキング。仙台の副都心として発展著しい長町を通ります。
中に入ったことはありませんが、表の雰囲気は昔とあまり変わっていない気がします。
JR長町駅で最後のトイレ休憩を済ませると、ゴールまでは約2kmの道のりです。 |
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11:40 カメイアリーナ仙台に到着しました。
ここは、トップクラスの観客動員力を持つプロバスケットチーム 仙台89ERSの本拠地です。
しかし、給排水設備が無い為に、フードコートが充実できず、屋台形式での営業も仙台市は
認めない方針だそうです。もう少し融通を利かせてもいいのではと思うのですが・・・ |
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本日は、行動時間 2時間20分 距離 8.1km 累計高度 76m でした。 |
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数年ぶりの乗車となる仙台市地下鉄を利用して帰る事にしました。
南北線富沢駅から五橋駅下車でもいいのですが、スタート地点まで戻る事にしました。
仙台で東西線に乗り換えます。スムーズな導線になっており、楽に乗り換えできました。
歩くと2時間20分かかりましたが、地下鉄なら乗り換えを含めて20分程度で到着です。
持ってきたお弁当を西公園で食べながら、2ヶ月ほど早いお花見です。枝見か・・・(笑) |
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本日の総会ウォークは、いかがだったでしょうか?
総会ウォークというよりも、橋巡りウォークがふさわしかったかもしれません。
本日、渡った橋は、評定河原橋・霊屋橋・愛宕橋。
袂を歩いた橋は、大橋・愛宕大橋・宮沢橋・広瀬橋と広瀬川中流域の七橋に触れ合いました。
それぞれに歴史があり、特に殉教・戦・人柱と自分の信ずるものの為に自分の命を捧げた
方々の生き様は心を打つものがありました。
スタート前に、何も見所はないだろうと思っていた自分を恥ずかしく思います。
ただ歩くだけでは見過ごしてしまったかもしれない、道の片隅に息づく小さな小さな物語。
これからも色々な仙台に触れてみたいと思った本日のウォーキングでした。 |
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